長期連載「ふくしまの10年」の新シリーズ「行ける所までとにかく行こう」を始めます。フォトジャーナリストの豊田直巳さん(63)は事故発生の2日後から、危険をかえりみず東京電力福島第一原発事故の取材を開始。そこで見たものを語ってもらいます。(山川剛史が担当します)
2011年3月11日、写真家の豊田直巳さん(63)は東京・新宿の喫茶店で旧ソ連のチェルノブイリ原発事故のドキュメンタリー制作に向けた準備作業中に強い揺れを感じた。その時点では、まさか「チェルノブイリに重なる現実を、日本国内で取材し続けるとは思ってもみなかった」。
東京電力福島第一原発が緊急事態だと知り、取材機材を準備し、翌12日午前に自家用車で福島に向けて出発した。
イラクなどで劣化ウラン弾問題を取材するため線量計は持っていた。安定ヨウ素剤もある。同行の仲間がリビア取材に備え衛星電話をレンタルしていた。農薬散布や塗装作業で使うマスク、使い捨てのかっぱ、寝袋も積み込んだ。
高速道路は一般車両は通行止めで、ひたすら国道4号を北上。1号機が水素爆発を起こしたと車のラジオで知った。とてつもない事態だが、このまま現地に行くのか―。迷いはあったが行ける所までとにかく行こうと決意し、その夜は福島県郡山市のホテルが開放してくれていた大広間で夜を明かした。
既に避難指示が原発20キロ圏まで拡大。翌朝、都路(みやこじ)街道と呼ばれる国道288号に入り、海を目指した。警察も自治体も対処が間に合わないのか、何の規制もなく、原発がある大熊、双葉両町に入れてしまった。
双葉町の前田川にかかるJR常磐線の橋が、都路街道の上に崩落していた。車1台が通り抜けられるすき間があり、そこを住民たちの車が次々と山側へと避難していく。ここで初めて線量計を取り出した。
毎時6.3マイクロシーベルトあった。都内なら0.05マイクロシーベルト前後だから異常な値だ。劣化ウラン弾が命中した戦車で3マイクロシーベルトを測ったことはあるがその2倍はあった。
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