福井・敦賀1号機が運転開始50年「未来のエネルギー」重荷に

 50年前の3月14日、福井・敦賀半島の北端近くで日本原子力発電の敦賀原発1号機が営業運転を始めた。その後、商用原発13基が集中することになった福井県で、最初の稼働だった。「未来のエネルギー」と期待されたが、東京電力福島第一原発事故で風向きは変わった。福井県内では、「夢の原子炉」とされた高速増殖原型炉もんじゅなど研究炉2基の他、敦賀1号機を含む5基が廃炉に。敦賀原発に関わり電力供給を支えてきた人たちは複雑な思いを抱いている。(今井智文、高野正憲)

敦賀原発1号機(手前)と2号機。一番奥に見えるのは隣接する敷地に立つ新型転換炉ふげん

「技術者は萎縮したら、安全につながらない」

 原子炉建屋そば、原発を運転するための計器がずらりと並ぶ中央制御室。1970年3月14日午前4時、入社1年目だった徳永克己さん(71)=東京都=は廊下からガラス越しに中を見つめていた。
 100時間の連続運転試験が終わり、いよいよ始まった営業運転。「その場にいた3、40人からわーっと歓声が上がって、万歳が湧き起こったのをありありと思い出す」。設備の保全管理部門で働き、所長代理も務めた徳永さんは当時の様子を振り返った。
 電気は敦賀から、翌3月15日に開幕した大阪万博の会場に送られた。「皆が技術を高めようという気概で、前向きだった」
 一丸となったものの、逆風が吹く。79年に米スリーマイル島原発でメルトダウン(炉心溶融)となる大事故が発生し、日本でも不祥事や事故が続いた。徳永さんは「仕方ないことだが、原発が事業者の重荷になったと感じる」と話す。
 福島事故後、原発の規制が強化されたことを念頭に置き、「技術者らが萎縮して閉じこもったら、それも安全につながらない。前を向いてほしい」と、後輩たちを思いやった。

「敦賀1号機は着実な廃炉でも役割を果たしてほしい」と話す徳永克己さん=東京都大田区で

「事故隠し」と運転停止処分

 敦賀原発も、事故や不祥事とは無縁ではいられなかった。81年、冷却水漏れの事故があったものの運転をしながら修理を実施。さらに大量の放射性廃液が海に流出し、事故隠しと批判を浴びた上、国から6カ月の運転停止処分を受けた。
 事故後、「放射能汚染」が懸念されて深刻な風評被害をもたらし、敦賀市内で取れた魚や野菜が売れなくなった。敦賀原発の総務課長などを務めた古市謙三さん(79)=敦賀市=は、補償対応に奔走した。「誠実に地域と向き合い、時には住民の側に立って会社とぶつかることが必要だった」。福島事故が起きる前に「安全対策に対する意見をもっと広く聞く必要があったのではないか」と指摘する。

「敦賀はなんだかんだ、原発の町」

 「大工場がやってきて、黄金のシャワーが降り注いだようだった」。敦賀市内にある原発向け工具販売「キコー綜合」の小森英宗会長(72)は、原発建設と稼働で活況に沸いた町を思い起こす。
 別の原発向け工具販売会社の駆け出し営業マンとして、敦賀1号機に関わった。敦賀原発稼働後の26歳で独立。「建設、宿泊、飲食、あらゆる業種がもうかった」。小森さんの会社も売り上げを伸ばした。
 だが、最盛期に12億円あった原発関連の売り上げは、福島事故後に4割減った。安全をおろそかにしていた電力会社に憤りを感じるものの、原発とともに生きていく以外に活路はないとも感じている。
 「原発は地元に投入する人と資金が桁違い。敦賀はなんだかんだ、原発の町だよ」

工具を手に敦賀原発が稼働してからの50年を振り返る小森英宗さん

敦賀原発とは

1号機は全国初の商業用軽水炉。東京電力福島第一原発と同じ沸騰水型という発電方式で出力は35万7000キロワット。福島第一原発事故後の2015年に廃炉が決まった。2号機は加圧水型という別の発電方式で出力は116万キロワット。1987年2月に営業運転を始めたが、2011年5月以降は停止。原子力規制委員会の新規制基準審査では、2号機直下の断層が活断層であると指摘されており、確定すれば廃炉となる。3、4号機の建設計画があるが、進んでいない。

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