事故から8年 福島第一原発の今 <記者ルポ編>

 東京電力福島第一原発に1月30日と2月8日、二人の記者がそれぞれ入った。いずれも初めての構内取材。事故から8年となる原発で何を見て、感じたのかを報告する。
(写真は全て代表撮影)

構内には高さ10メートルの巨大なタンクが立ち並び、高濃度汚染水を浄化処理した後の水など110万トンを保管している
1~4号機を見渡せる高台。ドーム型屋根があるのが3号機、左に見えるのが2号機

響く「静かな湖畔」/松尾博史記者

 1号機から4号機の建屋を見渡せる高台に立つと、作業用のクレーンや足場が並び、白い防護服姿の作業員が遠くに見えた。どこからか軽快な音楽が聞こえてくる。「静かな湖畔」のメロディーだ。2号機の建屋外側に取り付けられたエレベーターが動いている合図らしい。「3号機のエレベーターの音楽は『宇宙戦艦ヤマト』なんですよ」と広報担当者が教えてくれた。
 150超を収容できる食堂では、作業員らが交代で昼食を取っていた。メニューは定食や麺類、丼物など5種類。380円均一で、地元福島県産の食材を多く使っているという。
 私が選んだのは、サバのみそ焼きがおかずの「定食B」。真冬に屋外から戻ってきた作業員にとって、温かい料理は何よりのごちそう。隣にはコンビニもあり、広報担当者は「シュークリームなどの甘い物が人気。仕事で疲れた後に食べたくなるのかも」と話す。
 構内では約4000人が働く。大半は男性だが、女性の姿も見かけた。テロ対策で、身分証の確認や所持品の検査などの入構手続きは厳重だ。無断で撮影された画像が流出するのを防ぐため、私物の携帯電話は持ち込めない。被ばく線量の確認もあり、約1時間40分の取材で50マイクロシーベルトだった。
 行き交う作業員たちは「お疲れさまです」と、互いに声を掛け合っていた。廃炉までの道のりは遠く、彼らの無事を願わずにはいられない。私もすれ違うたびに自然と口にしていた。「お疲れさまです」と。(1月30日取材)

【まつお・ひろし】福岡市出身、39歳。2011年3月11日当時は、地方版を編集する部署に在籍。電車が不通で2時間かけて歩いて出社し、大幅に繰り上げられた締め切り時間に間に合わせるのに必死だった。

1号機脇にある巨大クレーン。右側の走行用ベルト横に白い防護服を着た作業員が2人見える

緑消えた地 切なく/神谷円香記者

 ひしゃげた3号機の骨組みを間近で見ると、やはり圧倒された。靴を履き替え、ヘルメットとマスク、眼鏡は装着したが、服はそのまま。2018年5月以降は2、3号機から数10メートルの地点も軽装備で歩ける。ただ線量は毎時300マイクロシーベルト前後と高く、被ばく量を考慮し数分いるのが限度だ。
 日本記者クラブ取材団に参加し、初めて入った福島第一原発は、色彩を失った工事現場だった。ところ狭しと並ぶ、白く巨大な汚染水を貯蔵するタンク。放射性物質の飛散防止で灰色のモルタルで覆われた斜面は、事故の前は緑地帯で、ツツジの季節には地域住民が花をめでにツアーで訪れたという。面影はまったくなく、切ない。
 海側は津波を丸ごとかぶった建物が色あせさびついたまま残る。港に浮かぶメガフロートの一帯には、無数のウミネコが集団で羽を休めていた。彼らにとっては安全地帯なのだろうか。
 20年末までに137万トン分のタンクを敷地に設け、廃棄物の保管場所も必要なため、北側に残る樹木を次々と伐採している。作業員や視察者が着けるマスクなども使い捨てで、日々廃棄物がたまっていく。
 彩りが戻り少しほっとするのは、15年にできた大型休憩所にある食堂とコンビニエンスストア。「東電福島第一大型休憩所店」と記されるレシートは視察者に人気らしい。廃炉作業が続く限り、ここは大勢が働く職場。一息ついた作業員はまた現場へ入っていく。あと何十年か続く光景だ。(2月8日取材)

【かみや・まどか】東京都出身、33歳。入社1年目の終わりだった2011年3月11日、家族の用事で休みをもらい東京にいた。戦力になれず翌々日、赴任地の三重県四日市市へ帰るのが歯がゆく悔しかった。

3号機建屋の北側は水素爆発の損傷が残る。3月末に建屋上部の使用済み核燃料プールからの核燃料取り出しが始まる予定で、壁の一部が鉄骨で補強されている
3号機北側は軽装備で歩けるが、毎時332マイクロシーベルトという放射線量を測定。3時間強で一般人の年間の被ばく限度1ミリシーベルトに達するレベルだ
構内を歩く作業員ら。顔全体を覆う全面マスクと防護服を身に着け、高線量での作業を担当していることを物語る
大型休憩所内にある食堂では多くの女性が働いている
定食は380円均一。地元福島県産の食材を多く使っている
食堂の隣にはコンビニもある

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