連載「チェルノブイリ原発事故 30年後の現実」  (1)情報なき避難

 旧ソ連(現ウクライナ)のチェルノブイリ原発事故から、今年4月26日で30年がたつ。原子炉から放出された、森を赤く変色させるほど強烈な放射能は、今も人々の暮らしを脅かしている。5年前に発生した東京電力福島第一原発事故と比べながら、原発が抱える危険性を現地で探った。

歩いた森既に汚染 夫は収束作業後に死亡


 「4号機で事故があったらしい」
チェルノブイリ原発から四キロ、原発作業員のために造られた街プリピャチのパン工場で夜勤に就いていたニーナ・オメリチェンコ(62)は事故当日の未明、同僚からうわさを聞いた。七歳と十一歳の息子が待つアパートへ帰る途中、多くの警察官や消防士を見かけた。異様だった。
 夫は原発で車の運転手を務め、いれば何が起きたか分かるはずだが出張で不在。オメリチェンコは何が起きているのか不安を抱きつつ次の夜も出勤すると、工場を管理する国の出先機関の職員が突然、錠剤を配り始めた。何の説明もなく、甲状腺被ばくを抑える安定ヨウ素剤だと後で知った。
 翌日昼にラジオをつけると、「全員避難します。バスが来るので身分証と三日分の食料を持って避難を」と繰り返していた。やはり原発事故かと思ったが、すぐに帰れるはずと楽観的に考えた。小さなカバンだけを持ち、出張から戻った夫と合流し家族四人でアパートに横付けされたバスに乗り込んだ。プリピャチ暮らしの終わりだった。
 同じ街のラジオ工場に勤めるタチヤーナ・ツィブリスカヤ(63)。彼女も困惑に包まれていた。
 夜勤から帰る途中、爆発のような音を耳にした。夫は原発でクレーン技師をしていたが、家にいたため情報が入らない。ツィブリスカヤが翌日、工場に行くと、門は閉まり、上司や同僚がいたがだれも理由を知らなかった。
 やむなく帰宅すると、ラジオで避難指示が流れた。避難用のバスは満員で、一家四人で近くの駅まで歩き、列車で百数十キロ北東の実家へ避難した。
 だが、一家が歩いた駅までの松林は、後に「レッドフォレスト(赤い森)」と呼ばれる場所だった。原子炉から放出された超高濃度の放射能雲が通過し、松の葉が枯れた。駅も汚染されていた。当時は何も知らされず、全ては後から知ったことだった。
 両家族とも夫は原発に戻され、爆発で炉内がむき出しになった4号機を鉄とコンクリートで覆う「石棺」の突貫工事に加わった。
 オメリチェンコは、酒におぼれるようになった夫と離婚。自分も体調が悪くなり、医師から「がんになる恐れがある」と言われ、甲状腺を摘出した。六年前には三十代前半の次男を心臓疾患で亡くした。
 一方のツィブリスカヤは九年前、五十九歳の夫を心臓発作で亡くした。「あのとき、原発で被ばくしたからでしょう。行かせるんじゃなかった。当時はソ連で、命令は絶対だったけれど…」と悔い続けている。 (敬称略。この連載は文・大野孝志、写真・梅津忠之が担当します)

■福島では 誘導なく危険地域へ

 25年後の福島事故でも、住民には情報が伝わらず、避難は困難を極めた。
 数日で帰れると思った人々は着の身着のままで家を出て、長期間の避難生活を強いられた。車の大渋滞も起きた。適切な避難誘導がなく、逆に放射能汚染がひどい地域に一時避難する事態も起きた。
 原発の新しい規制基準では、原発30キロ内の自治体に避難計画をつくることが義務付けられたが、実効性は検証されないまま、再稼働の手続きが進んでいる。


(メモ)チェルノブイリ原発事故

 1986年4月26日午前1時23分、原子炉の欠陥と運転員の熟練不足で、4号機の出力が急上昇し、爆発した。臨界状態の核燃料がそのまま飛散し、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアなどを汚染した。避難・移住者は40万人に上る。

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