連載「チェルノブイリ原発事故 30年後の現実」 (2)消火で大量被ばく

英雄むしばまれ 3分の1が死亡

 チェルノブイリ原発事故から一カ月ほどたった一九八六年五月二十三日未明。百七十キロ離れたジトーミル州から、部隊を率いて原発に派遣されていた消防局長ボリス・チュマク(77)は、3号機と4号機の間にあるケーブル用地下トンネルから出火したとの一報を受けた。当直を終えて、他の部隊と交代しようとしていたときのことだった。
 真っ先に駆けつけ、トンネルに入って火を消そうとした。だが、現場は狭いうえに、測定班から「現場は毎時二五〇〇ミリシーベルトある」との衝撃の連絡が入った。こんな場所で一時間も作業をすれば、半数が死に至る極めて高い放射線量だ。
 突入すれば大量被ばくは確実。迷いはあったが、「俺たちがやらないと1号機まで燃え広がる。そうすれば、モスクワだって汚染され、人が住めなくなる」。そう確信したチュマクは突入を決断した。
 「五人でグループをつくり、各班が十分間ずつ交代で消火に当たれ」。旧ソ連政府消防局の司令官ウラジミール・マクシムチュクの指示を受け、部隊は現場に突入した。
 原因不明の火災は、苦闘のかいあって収まり、さらなる惨事に拡大することは避けられた。宿営地に戻ると、全員が達成感に満ちていた。「俺たちは、勝ったんだ」
 消防士たちは英雄となり、ジトーミルの消防署の前の道は「英雄消防士通り」と名付けられた。だが、彼らの体は、大量被ばくでむしばまれていた。長く厳しい闘いは、地元に戻ってからだった。半年がたつと、チュマク配下の三百人にも異変が起き始め、これまでに三分の一に当たる百一人ががんや心臓、骨髄の疾患で亡くなった。
 「リクビダートル(収束作業員)」と呼ばれる消防士や兵士、作業員らは、六十万人以上いたとされる。網羅的なデータではないが、ロシアからの六万六千人の死亡率は一九九一~九八年の八年間で7・6%。チュマクの部隊の死亡率は、それよりはるかに高い。
 チュマクと同郷で尊敬していたマクシムチュクも、事故八年後に胃などのがんで亡くなった。チュマク自身も顔にがんができ、心臓も悪い。
 生き残った消防士たちは助け合うために基金をつくり、葬儀の手伝いもする。「二〇一五年も六人が死んでいった。いつになっても、仲間が死ぬのはつらく、苦しく、悲しい。特に、残された妻たちに会うのが、つらい」。チュマクの表情が曇った。 (敬称略)

■福島では 線量限度超えは174人

 東京電力福島第一原発事故の収束には、これまで約4万6000人が関わったが、作業員の被ばく線量限度(5年間で100ミリシーベルト)を超えたのは、0.3%の174人。大半の人が発生当初の2011年3月に浴びた。
 汚染がれきの撤去などで現場の線量は大幅に下がった。ただ、今後、廃炉作業が原子炉に近づくにつれ、危険な作業が増える。昨年10月には、建屋の覆い設置などに当たった作業員の白血病に対し、労災が認定された。だが、臓器など他のがんには明確な認定基準がなく、救済のハードルは高いままだ。

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