チェルノブイリ原発事故から30年 本紙が現地で測定 食の汚染今も

 旧ソ連・チェルノブイリ原発事故から三十年を迎えた。いま現地の汚染はどうなっているのか。福島とチェルノブイリ周辺で住民の被ばく調査を続けている独協医科大学の木村真三准教授に同行し、現地を訪問。人々が暮らす村で、食べ物や土を採取して調べた。その結果から浮かび上がったのは、人々が被ばくの危険にさらされながら暮らし、これからも放射能汚染と闘い続けなければならないという厳しい現実だった。(文・大野孝志/写真・梅津忠之/CG・白井裕子/紙面構成・山川剛史、武田雄介)

「キノコ、娘に食べさせない」  生活の糧…野生の食材は高濃度

 原発から六十キロ西、フリスチニフカ村に住むエミール・クビチニヤさん(37)宅を、昨年十一月の日曜日に訪ねた。食卓は、想像していたより彩り豊か。豚の脂身を塩漬けしたサーロや、揚げた魚、ハンバーグ、ニンジンサラダの香りが食欲をそそる。「早く、早く」とせかす娘たちの姿が、ほほ笑ましい。
 この一家の五日分の食事に含まれる放射性セシウムの状況を調べた。結果を見ると、何を食べたかによって、数値が極端なまでに上下していた。その主な原因はキノコ。
 炒め物にしたり、代表的な家庭料理ボルシチに入れたりしていた。エミールさんが自宅近くの川で投網で捕った川魚は、揚げて食べられていたが、日本の食品基準(一キログラム当たり一〇〇ベクレル)を大きく超えていた。
 両親と娘二人の間でも、食事を通して取り込んだセシウムはまるで違った。父親が娘の千倍超に達する日もあった。
 誰が何をどれだけ食べたかの記録を読むと、娘たちはキノコを使った料理を食べていない。「なるべく食べさせないように、普段から気を付けているんだ」とエミールさんと妻のアナスタシアさん。
 キノコを採っている森だけでなく、牛乳を出荷している牛飼いの牧場、庭の畑も汚染されている。地元の研究者に聞くと、森や畑を除染したことはなく、畑に石灰やカリウムをまいて、セシウムが作物に移るのを抑えているという。
 そもそもこの村は移住しなければならない地域で、本来なら誰も住んでいないはずだ。だが、旧ソ連が崩壊して、住民の移住は頓挫。そこへ、度重なる政変や内戦の影響で、物価が上がった。村に残った人たちは、自宅の畑で作った野菜や飼育している豚、汚染された森で豊富に採れるキノコ、ベリーを食べることになる。
 エミールさん宅では昨夏の干ばつで、キノコの収穫が減り、野菜は全滅。やむなく、食材を買うことになった。その結果、汚染されていない物を食べるようになり、家族の被ばく量が格段に減った。
 どうやって食べ物を買うお金を手に入れたのか。エミールさんに尋ねると、空のガレージを指さした。車を売ったのだ。自然の恵みを受けた生活をすれば被ばくし、被ばくを避けるためには金が要る-。汚染地域の現実を示していた。

「危険は恵みの森に 福島も同じ」 独協医科大学・木村真三准教授(放射線衛生学)

 事故から5年後の1991年、チェルノブイリ法で放射能汚染ゾーンが設定された。フリスチニフカ村は、移住義務対象地域に当たる第2ゾーンにあり、隣接して特別規制地域の第1ゾーンの森が広がっている。この村は、人が住む最低条件を満たしていなかった。現在も森や畑の汚染が続き、食品への放射能移行が起きている。
 事故から5年後の福島でも、森林除染のめどが立っていない。汚染の度合いがチェルノブイリとは異なるが、山の汚染や食品への移行など、気になる点はいくつもある。
 「セシウム137の半減期は30年だが、人の記憶の半減期はそれよりも、あまりに短い」。チェルノブイリ事故で汚染されたベラルーシの赤十字赤新月社のビクトル・カルバノフ事務局長の言葉だ。
 日本では政府が復興の名のもとに、人々を福島に戻そうとしている。人々の放射能への意識が一段と薄まり、油断が内部被ばくを誘引する。
 春、山菜の季節に元の暮らしに戻り、春の恵みを食す。収穫の秋、たわわに実る野生の果物やキノコを食する-。だが、そこは事故前の里ではない。私は、今からが危険な時期だと警戒する。最も危険なのは、人々の放射能への意識が薄れてくる、今なのだ。

(メモ)チェルノブイリ原発事故

 1986年4月26日未明、ウクライナ北部(旧ソ連)のチェルノブイリ原発4号機で、原子炉の欠陥と運転員の熟練不足から出力が急上昇し、爆発した。臨界状態の核燃料がそのまま飛散し、1万平方キロ(東京都と神奈川、千葉両県を合わせたのとほぼ同じ)の土地を高濃度に汚染した。主要な汚染地域はロシア、ベラルーシ、ウクライナにまたがる。原発から30キロ内は今も立ち入り禁止。避難・移住者は40万人に上る。

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