チェルノブイリ事故30年 福島への教訓 苦しみは消えない

 旧ソ連のチェルノブイリ原発事故からの三十年間を、事故収束作業に関わった人々やその家族はどう生き抜いてきたのか-。原発再稼働への動きが強まる日本の今後を考える上でも、現地の状況を知りたい。そんな思いを抱き、ロシアを歩いた。(片山夏子、写真も)

「ママ、僕はマニュアル通りにしただけだよ」

 モスクワ郊外のミチンスコエ墓地には、事故直後の作業で大量被ばくし亡くなった運転員や消防士らの墓が並ぶ。放射性物質で汚染された遺体は鉛張りの棺に入れられ、その上は厚さ一・五メートルのコンクリートで覆われている。
 事故三十年の式典の日。ウクライナから来たベラ・トプトゥーノワ(80)は、事故当日の運転員だった息子レオニード=当時(25)=のレリーフを何度もなで、涙を流した。昨年は内戦の影響で来られなかった。
 ベラは今も、息子が意識もうろうとする中でボタンを押すしぐさをして「ママ、僕はマニュアル通りにしただけだよ」と訴えた光景が忘れられない。
 当初、当局は運転員の規則違反が原因だと発表したが、原発の構造上の欠陥は伏せられた。ベラは「二十五年後に名誉が回復され、勲章ももらった。でも、息子は帰ってこない。今でもそばにいてくれたらと毎日思う」と語った。

事故の19日目、運転員だった息子レオニードが亡くなった。墓地にあるレリーフをなでる母親のベラ・トプトゥーノワ=4月26日、モスクワ市内で

「どんなに完璧な技術になっても、必ず事故は起きる」

 原発事故は、収束作業をした男たちだけでなく、妻たちも苦しめた。
 看護師リュドミラ・シャシェノーク(65)は事故当日の深夜、運転員の夫ウラジーミルの上司の電話で病院に駆け付けた。次々と運ばれる大量被ばくした消防士や運転員の体を洗ったり点滴をしたりした。叫ぶ人や吐き続ける人…。「本当に恐ろしかった」。その中には、爆発で噴き出した熱い蒸気を全身に浴びた夫の無残な姿もあった。夫は明け方に亡くなった。
 不幸は続き、原発からわずか一・五キロの家から避難するバスに乗るとき、十一歳の息子がいないことに気付いた。父親にひと目会いたいと、原発に向かっていた。警察官に保護されたが被ばく。十八歳の時に重い心身疾患を発症した。
 自身も激しい頭痛のため看護師を辞め、野菜や花を売ってしのいだ。生活は苦しい。「今一番怖いのは死ぬこと。息子の世話をしてくれる人は誰もいない。先に息子が死んでくれたら…」
 リディヤ・ステブリャンスカヤ(53)は事故十年後の夜、ふと目を覚ますと、夫ニコライにひもで首を絞められていた。跳び起きてアパートの下まで逃げたが、しばらくして戻ると、夫は首をつって死んでいた。三十六歳だった。
 炭鉱労働者のニコライは爆発した4号機の地下トンネル掘りの作業から帰ってから、激しい頭痛や関節痛に苦しんだ。「骨が破れるような」痛みに耐えかねて大酒を飲むようになった。何もできない自分へのイライラも募っていたという。
 残されたリディヤは、わずかな補償金と、森の野生ニンニクなどを売ったお金で何とか生活してきた。事故の二年後に生まれた次男は、アレルギーや血管の疾患を抱える。リディヤ自身も障害者となった。「生きることで精いっぱいだった。補償は悪化する一方。国は完全に私たちのことを忘れている」と訴えた。
 夫ビタリーが軍の中佐だったタチヤナ・ブーゾフキナ(70)は二〇一一年三月、福島の原発事故のニュースを聞き、「また原発事故が起きた」と泣いた。
 夫は収束作業で使う資機材調達の責任者を二カ月半務めた。シャワーもないテント生活で、原発から戻った放射能まみれの車両や周辺道路の除染もした。六十九歳まで生きたが、甲状腺肥大や心臓病、高血圧のほか、「肉が骨から剥がされるような痛み」に苦しんだ。晩年は大きな脳腫瘍が見つかり寝たきりに。
 献身的に介護を続けたタチヤナは「原発はもういらない。どんなに完璧な技術になっても、必ず事故は起きる」と語った。

夫が自殺した後、森で採った野生ニンニクを売って生計を立ててきたリディヤ・ステブリャンスカヤ=4月25日、ロシア・トゥーラ州ベニョフ市で

「人を大切にしない国ではいざという時に人は助けに集まらない」

 生き残った事故収束作業者たちにも会った。
 事故直後、爆発した4号機の事態悪化を防ぐため、地下に窒素ガスを詰めるトンネルを掘る対策が実施された。
 モスクワ南方の街トゥーラの炭鉱労働者ら四百五十人が駆り出されたが、装備は綿の作業服に帽子、長靴、マスクは無しか、着けた人でも簡単なものだった。
 トンネルは高さ一・五メートルほど。掘り出した砂はトロッコに載せて人力で運び出す。中は五〇度に達し、息苦しかった。三時間交代だったが、別の班が作業している間は、放射性物質が漂う現場近くの屋外で待機させられた。実は、この待機が深刻な被ばくを招いた。
 二週間の作業後、労働者たちは次々と体調を崩し始めた。頻繁に風邪をひき、激しい頭痛や関節痛、さまざまな内臓疾患…。働けないどころか、亡くなる人も出始めた。
 オレグ・カシェツキー(56)ら炭鉱労働者五人は一九八九年、同盟をつくった。別の地域でも同様の動きが出ていた。事故収束作業をした人々がつくる「チェルノブイリ同盟」は急速に広がっていった。
 ストライキやデモをしながら補償を求め、住民の移住などを定めた九一年の「チェルノブイリ法」の実現にもつながった。障害が認められた人には、賃金補償や治療費、薬代などが出るようになった。
 だが補償内容は時とともに悪化した。カシェツキーらトゥーラの労働者たちは、モスクワの赤の広場近くまで行って勲章などを置き、強い抗議の意志を示した。それでも事態は好転せず、カシェツキーは「今では治療費や薬代もほとんど自費。人を大切にしない国ではいざという時に人は助けに集まらない」と嘆いた。
 駆り出されたトゥーラの四百五十人のうち、実に三分の一に当たる百五十人が心臓疾患やガン、自殺などで亡くなった。同盟トゥーラ支部長のウラジーミル・ナウモフ(60)は「事故から五~十年前後のころ、次々と仲間が死んでいった。最悪の時期だった」と振り返った。
 チェルノブイリの二十五年後に起きた東京電力福島第一原発事故。日本の作業員らは、健康、賃金ともほとんど補償がない。
 チェルノブイリでは事故現場や汚染地域にいたことなどで障害者と認められるが日本では労働者自らが被ばくと病気の因果関係を証明する必要がある。そんな状況に、ナウモフは「誰かが勇気を出して(改善へ)動き始めないと。自分たちの権利は自分たちで守るしかない」と語った。 (敬称略)

2カ月半、事故収束作業をした中佐のビタリー・ブーゾフキン(右端)の持っていた当時の写真。69歳まで生きたが、激しい頭痛などに苦しみ続けた(タチヤナさん提供)

(メモ)チェルノブイリ原発事故

 1986年4月26日未明、ウクライナ北部(旧ソ連)のチェルノブイリ原発4号機で、運転員の規則違反が原子炉の欠陥による出力暴走につながり爆発した。臨界状態の核燃料が飛散し、ロシア、ベラルーシ、ウクライナなど広い地域を高濃度汚染した。原発から30キロ内は今も立ち入り禁止。避難・移住者は40万人に上る。

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