調書は語る 吉田所長の証言 (8)東日本壊滅の危機 一番思い出したくない

 東京電力福島第一原発2号機は十四日夜には、ベント(排気)も、注水もできず、打つ手なしの状況に陥った。翌未明には五キロほど離れたオフサイトセンターの線量計が毎時一ミリシーベルト超を計測。このままでは、溶けた核燃料が圧力容器どころか、格納容器も突き破って膨大な放射能をまき散らす可能性が出てきた。吉田昌郎(まさお)所長の脳裏には、東日本壊滅が浮かんでいた。 (肩書はいずれも当時)

■排気も注水もできず

 -十四日十六時三十分ぐらいから減圧操作を開始したが、手間取った。
 「(ベント弁の)バルブが開かないと。私は何せ焦っていたんで、早く減圧させろと。私自身、パニックになっていました」
 「廊下にも協力企業だとかがいて、完全に燃料露出しているにもかかわらず、減圧もできない、水も入らないという状態が来ましたので、私は本当にここだけは一番思い出したくないところです。ここで何回目かに死んだと、ここで本当に死んだと思ったんです」
 「2号機はこのまま水が入らないでメルト(ダウン、炉心溶融)して、完全に格納容器の圧力をぶち破って燃料が全部出ていってしまう。そうすると、放射能が全部外にまき散らされる最悪の事故ですから。(旧ソ連の)チェルノブイリ(原発事故)級ではなくて、チャイナシンドロームではないですけれども、ああいう状況になってしまう。そうすると、1号、3号の注水も停止しないといけない。これも遅かれ早かれこんな状態になる」
 「結局、放射能が2F(福島第二原発)まで行ってしまう。2Fの4プラントも作業できなくなってしまう。注水だとか、そういう作業ができなくなってしまうとどうなるんだろうというのが頭の中によぎっていました。最悪はそうなる可能性がある。ここはじっと水が入るのを祈って待つしかないと思っていました」
 <東電テレビ会議では、十七時前、どんどん危うくなる状況に、清水正孝社長が「最悪のシナリオ。これを描いた上で対応策、把握して報告してください」と指示した。勝俣恒久会長からは「米軍が冷却をなんでもやると申し出があって、官邸がぜひ受けろと。窓口を決めて連絡してくれと」との話もあった。だが、ベントも注水もできないまま時が過ぎていく。二十時すぎに炉心溶融、二十二時すぎには圧力容器が損傷-との予測も出てきた。比較的冷静な武藤栄副社長からも「ドキドキしっぱなし。ずーっとドキドキ…。やけくそですよ…」の嘆きが漏れた。十九時半ごろになると、「退避基準」を検討する話も出始める。清水氏は「現時点でまだ最終避難を決定していないことをまず確認してください」と呼び掛け、吉田氏は「はい、分かりました」と即答している>
 「免震重要棟の近くにいる人間の命に関わると思っていましたから、それについて、免震重要棟のあそこで言っていますと、みんなに恐怖感与えますから、電話で武藤に言ったのかな。こんな状態で、非常に危ないと。操作する人間だとか、復旧の人間は必要ミニマムで置いておくけれども、退避を考えた方がいいんではないかという話をした記憶があります」
 -SR(主蒸気逃し安全)弁がなかなか開かない。
 「開いたんですが、なかなか圧が下がらない。どんどん水位は下がっているなと。炉圧が下がり、水を入れるというタイミングのときに、ポンプが消防車の燃料がなくなって、水が入らないと。そこでもまたがくっときて、(燃料を)入れに行けという話をしていまして、これでもう私はだめだと思ったんですよ。私はここが一番死に時というかですね」

■格納容器が危険に

 <その後も炉の圧力は不安定。そのうち、注水用の消防車が燃料切れを起こしているのが見つかる。現地対策本部では「ダメじゃん最後の最後、これかよって感じ」「さっきの爆発よりヤバイ」の声>
 「いつでも注水できるように消防車がだいぶ前からスタンバイしていますので、油ぎれになってしまったんです。線量高いですから、常駐させているわけにはいかないんです」
 「何で圧が上がっているんだ、バルブ開いているのかという確認をして、多分、その操作をさせたと思うんですけれども、何せ、ここは私の記憶から全部消したいと思うんです。トラウマ(心的外傷)みたいなものですから」
 「水が入ったら、過熱した燃料に触れますから、ふわっとフラッシュして、また水が入らなくなる。いずれにしても、かなりこれは損傷して、メルトに近い状態になっていると思っていましたから」
 -だめだと思ったのは3号機とかよりも2号機。  「3号機や1号機は水入れていましたでしょう。水入らないんですもの。水入らないということは、ただ溶けていくだけですから、燃料が。燃料が溶けて一二〇〇度になりますと、何も冷やさないと、圧力容器の壁抜きますから、それから、格納容器の壁もそのどろどろで抜きますから、チャイナシンドロームになってしまうわけですよ。燃料分が全部外へ出てしまう。プルトニウムであれ、何であれ、今のセシウムどころではないわけですよ。放射性物質が全部出て、まき散らしてしまうわけですから、われわれのイメージは東日本壊滅ですよ」
 -だが、すぐに退避というふうになっていない。
 「水が入ったという兆候が出たんで、そこで、水入ったというふうに喜んで、あとはずっと水を入れ続けるだけだということで、はっきり言って、ここは忘れたいんだけれども、やっと助かったと思ったタイミングがあるんです」

■ぎりぎりで水入った

 <吉田氏が言うタイミングとは二十一時十九分、やっとSR弁が開き、ポンプが回り、炉の水位が回復した時のことだ。「まだ望みあるよ」「やった!」の声がテレビ会議で響いた>
 「本当に綱渡りのぎりぎりのところで、やっと水が入って、そこまでは私は生きた心地していなかったです。死んでいましたね」
 <「一秒一秒胸を締め付けられるような感じ」の緊張から一息つけた吉田氏だが、二十三時前になると、またもSR弁が閉まって炉の圧力が上昇。注水できなくなった。本店社員からは「高圧で炉心損傷すると、数時間で格納容器破損ということです」と恐ろしい説明もされた。オフサイトセンターのデータを見ても、放射線量はどんどん高くなっている。
 調書には、深夜から翌十五日朝までの炉や作業の状況がほとんど記されていないが、炉圧は比較的安定し、一応は継続的に注水ができたとされる>
 -炉圧が落ちたあたりは水が入ったような。
 「入っていると思っています。確実に入っている」
 -それで皆さん、退避せずに踏みとどまってやっておられた。
 「そうです」

◆その時政府や東電は・・・ 細野氏「制御不能と思ったのはこの日」

 2号機が危機的な状況となった14日夜、官邸は沈黙した。推移を見守るしか手だてはなかった。
 細野豪志首相補佐官はこの日、予期していたのに、3号機の水素爆発を止められなかったショックもあり「制御不能だと思ったのはこの日ですね。本当にまずいと思いました。この日は」と調書で語る。
 吉田氏とは携帯電話で連絡を取っていたが、調書の中で「未明ごろ、吉田さんと話した記憶は」と問われ、細野氏は「本当に人生で初めての緊張感の中でやっていたので、そこは覚えていないんですよね」と説明する。
 枝野幸男官房長官も、不安定な状況に振り回された。「(深夜から未明に水が)入っていますという話があったのかどうかは記憶がない。あったとしてもこういう繰り返しでしたから、本当に入り続けるのか、ほっとする情報が入っていたわけではない。一喜一憂しながらという状況の中で、何が入っていたかまでの記憶はないです」と答えた。
 「これ以上、悪くなるのを回避するために、作業は頑張ってくれ」と祈っていた福山哲郎官房副長官。その調書によると、事故発生後は官邸で姿を見なかった経済産業省の松永和夫次官や細野哲弘資源エネルギー庁長官らが姿を見せた。
 「夜中の2時ぐらいになると、非常に緊迫度を増してきます。総理の執務室周辺がざわざわしだしてきて、延々と断続的に議論します」と振り返った。
 議論は、炉の状況と東電の撤退・退避の問題。その後、執務室で仮眠中の菅直人首相を起こし、撤退問題を話し合う午前3時の「御前会議」へと続いた。

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