2011年4月20日、東京電力福島第一原発からちょうど20キロ南に位置するサッカー施設「Jヴィレッジ」に着いた写真家の豊田直巳さん(64)は、作業員の様子を撮影して回った。
東京ドーム10個がすっぽり入る約49ヘクタールの敷地に天然芝、人工芝合わせて10面のサッカー場、全天候型の練習場などを備え、「日本サッカーの聖地」とも呼ばれてきた施設。
しかし、原発事故後は、事故収束で使う資機材を集積するほか、作業員たちが防護服や全面マスクなどの装備を脱着する中継拠点として使われた。
管理棟らしき建物に行くと、白い防護服を着た作業員たちが数え切れないほどいた。背中には、だれなのか識別するため、マジックで所属する会社や名字が大きく書かれていた。1階ロビーには、全面マスクに付けるフィルターなどが入った段ボール箱がところ狭しと積み上げられていた。
当時の福島第一原発は、ようやく原子炉の循環冷却が軌道に乗ったばかり。汚染されたがれきが散乱し、設備はどれも応急のものばかり。放射線量も高く、作業は緊張を強いられる。
それだけに、原発から20キロ離れた中継拠点では、作業員の表情が意外にも明るいのが印象的だった。建物のバルコニーに置かれたベンチで、談笑する姿もあった。
その半面、かつてのサッカーの聖地は、原状回復は無理だろうと思った。駐車場では、作業員を乗せ原発との間を往復する車が洗われ、きれいに整備されてきた芝には、作業員たちが乗ってきた自動車が無造作に置かれていた。
「え! 芝生をこんなふうにしちゃうんだ。もう使えないな」。豊田さんがそう感じたJヴィレッジだが、再整備され18年7月に再始動した。=おわり (山川剛史が担当しました)
フォトジャーナリスト豊田直巳さんの写真をもとに、東京電力福島第一原発事故が発生した当初の状況を振り返るシリーズは、今回でひとまず終わります。
豊田さんは何度も何度もふくしまの状況を記録し続けており、今後も数えきれないほどのカットの中から「ふくしまの10年」をつづっていく予定です。
事故発生当初、原発周辺の取材は本紙でも規制されていました。豊田さんの写真やお話をうかがう中で、「そうだったのか」と気づかされることが多々ありました。福島第一を10年間取材してきた私にとっても、空白に近かった地域の状況の記憶が、かなり穴埋めしていただいたと実感します。豊田さんありがとうございました。今後もよろしくお願いします。(編集委員・山川剛史)
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