【薄れゆく「青い光」 JCO臨界事故20年】語れぬ苦しみ今も

 強烈な放射線を放つ「青い光」が2人の命を奪い、600人超の住民らを被ばくさせた。核燃料加工会社ジェー・シー・オー(JCO、茨城県東海村)の臨界事故から、9月30日で20年。未曽有の被害を出し、コントロールできない核の怖さを思い知らされたが、その12年後には東京電力福島第一原発事故が起きた。惨事の記憶が薄れつつある現場を歩いた。

臨界事故を起こしたJCO=茨城県東海村で、本社ヘリ「あさづる」から

 「思い出したくない」。犠牲になった作業員の大内久さん=当時(35)=の父親は、記者が「JCO」と言っただけで顔をゆがめた。悲しい記憶は20年たってもなお、遺族や関係者の口を重くしている。
 大量被ばくした作業員3人のうち唯一の生存者である横川豊さんの自宅を訪ねたが、妻が「取材はお断りしている」とだけ話した。
 事故は1999年9月30日午前10時35分ごろに発生。現場の転換試験棟にいた作業員は「青い光を見た」と証言した。核分裂が継続する臨界が約20時間続き、放射線が出続け、10キロ圏約31万人に屋内退避が求められた。
 「鳥も鳴かないほどの静けさだった」。試験棟から340メートル離れた場所に住む菓子材料卸売業の寺門博孝さん(67)は、当時を振り返る。発生時は出張中で、自宅敷地内の工場にいた従業員から電話で知らせを受け、午後6時ごろに戻った。JCO前の国道6号の交通量はなく、街が死んだようだった。
 健康に影響はなかったが、風評で会社の売り上げは4割ほどに激減した。地元の特産の干しいもなども売り上げが落ち、払拭(ふっしょく)するまで苦労した。
 村の存続も危ぶまれたが、20年がたち、村内でさえ記憶は薄れている。寺門さんは「近所の人は心の奥に当時のことをしまい、村内でも遠い場所では、JCOのことを話す機会はなくなっている」という。

「風化させるな」遺志つなぐ

 風化に危機感を抱くのは、被ばくした両親が健康被害を訴えていたノンフィクションライターの大泉実成さん(57)=茨城県日立市=だ。
 「JCO事故は日本の原子力事故史の大きなポイントだった。同じ過ちが繰り返されないよう、忘れてほしくない」と話し、地元の講演会などで両親のことを伝えている。
 父親の昭一さんは試験棟から120メートル先にあった自動車部品工場を経営。事故後、持病の皮膚病が悪化した。経理をしていた母親の恵子さんも胃潰瘍とうつ病を発症し、2002年には工場を畳まざるを得なくなった。
 2人はJCOなどに損害賠償を求めて提訴したが、最高裁は10年、被ばくを認めつつ健康被害との因果関係を否定し、上告を退けた。その翌年、昭一さんは亡くなった。
 「父は最期まで『ひどすぎる』と怒っていた。『事故を風化させないよう、よろしく頼む』と病床で母に託していた」
 恵子さんは昭一さんの遺志を継ぎ、講演活動を始めたが、昨年1月に他界。それからは、その思いを実成さんがつないだ。
 「JCOのような小さい工場では事故は起きるが、原子力発電所は対策をきちんとしている」。実成さんは東京電力福島第一原発事故前に、原子力関係者から掛けられた言葉を鮮明に覚えている。安全神話は臨界事故後もはびこっていた。
 記憶の風化と安全への過信が、福島の原発事故につながったと考えている。(松村真一郎)

JCOのフェンス前で「事故を忘れてほしくない」と語る大泉実成さん

国の責任問わずに幕引き

 小ぶりの倉庫のような白い建物は、今もそのままになっていた。1999年9月30日に臨界事故の現場となった核燃料加工会社ジェー・シー・オー(JCO)の「転換試験棟」だ。
 内部は見せてもらえなかったが、同社東海事業所の増井久志副所長(57)が「この壁の向こうに(臨界が発生した)沈殿槽がありました。今は全て撤去して、がらんどうです」と説明した。
 臨界収束後も出続けた放射線を遮蔽(しゃへい)するため急ごしらえしたコンクリートの壁が裏手に少し残る以外、事故を思い起こさせるものは何もない。ただ、構内では現在も設備の撤去や除染、ウランを含む廃棄物の管理といった作業が続く。
 事故後、当時の所長ら6人は業務上過失致死、JCOは原子炉等規制法違反の罪などに問われ、有罪が2003年に確定。一方で判決は、管理監督の不十分さを指摘され「隠れた被告」とも呼ばれた科学技術庁(現・文部科学省)の責任を否定した。原子力安全委員会(原子力規制委員会の前身の一つ)が設置した事故調査委員会の報告書も、国に甘い内容だった。
 ウラン溶液を作る業務を発注した、現在の日本原子力研究開発機構の責任も追及されなかった。末端の民間企業に全ての罪をかぶせて幕引きした形だ。
 事故の経緯に詳しい民間シンクタンク「原子力資料情報室」(東京)共同代表の西尾漠さん(72)は「JCOが不正な作業に手を染めた背景には、発注者の無理な注文に応じようとしたことがある。不正な作業を見過ごしていた国の責任も大きい」と指摘する。

「JCOから福島までは一直線だった」と語る前東海村長の村上達也さん=茨城県東海村で

半端な反省「ムラ」温存

 中途半端な反省で「原子力ムラ」の安全を軽んじる体質は温存され、その後も事故は続いた。関西電力美浜原発(福井県)では04年、配管から蒸気が噴き出し作業員5人が死亡。07年には、北陸電力が志賀原発(石川県)の8年前の臨界事故を隠蔽(いんぺい)していたことが明るみに。ムラは何も変わっていなかった。
 それどころか、国や原子力業界は「原子力ルネサンス」の旗を掲げ、原発の新増設や海外輸出に狂奔。そして「3.11」を迎えた。
 JCO事故当時に村長だった村上達也さん(76)は、教訓を生かせなかった国やムラが東京電力福島第一原発事故を防げなかったのは必然だと感じている。「JCOを原子力業界が深刻に受け止めたとは思えない。表面を取り繕っただけで何も変わらなかった。JCOから福島へは一直線だった」
 「福島」後も、核燃料物質のずさんな管理は後を絶たない。茨城県大洗町の原子力機構の施設で17年、プルトニウム入りの袋が破裂して5人が被ばく。19年にも東海村の原子力機構の施設で、ウランとプルトニウムの混合酸化物(MOX)粉末が室内に漏れた。
 9月19日、福島の原発事故で業務上過失致死傷罪に問われた東電の旧経営陣に無罪判決が出た。国会の事故調査委員会は「人災」と断じたが、責任の所在はあやふやなままだ。
 今も、なお原発は動き続ける。歴史は繰り返されないのか-。不安の声は、かき消されようとしている。 (宮尾幹成)

JCO臨界事故とは?

1999年9月30日、茨城県東海村の核燃料加工会社ジェー・シー・オー(JCO)東海事業所で、濃縮ウラン溶液を本来の用途と異なる「沈殿槽」に大量投入したところ臨界が発生。作業員3人が大量被ばくし、うち2人が死亡した。原子力施設の事故による急性放射線障害で犠牲者が出たのは国内初。臨界は20時間持続し、救助に当たった消防隊員や周辺住民ら667人が被ばくした。刑事裁判ではJCOと所長や現場責任者ら6人の有罪が2003年に確定。被害者に計約154億円の賠償金を支払った。JCOは住友金属鉱山の100%子会社。

関連記事