政府関係者らの調書要旨(上)

 十一日公開された東京電力福島第一原発事故の政府事故調査・検証委員会による聴取記録は、当時の吉田昌郎第一原発所長をはじめ、菅直人首相ら関係者計十九人分に上った。吉田氏以外の要旨は次の通り。 (肩書は二〇一一年三月十一日現在のもの)

 【枝野幸男 官房長官】

 -原発事故翌日、菅首相が福島第一を視察した。
 「政治的には絶対にあり得ない。政治的パフォーマンスとしてやるんだったら、むしろマイナス効果の方が大きい、それは分かっていますねという趣旨の念押しをした」
 -東電の撤退問題。
 「(三月十四日から十五日にかけての)夜に呼ばれて、首相応接室で海江田(万里経済産業相)さんと話し、東電撤退の話も出てきて、そうしたら私あてに(東電の)清水正孝社長から電話がかかってきて、同じ趣旨のことをおっしゃった。私の一存で、はいと言える話ではありませんということで電話を切った」
 「間違いなく全面撤退の趣旨だったと自信があります。そうでなかったら(社長が)私に電話してきません。社長が私に電話をかけてくるのは特別なことなんです。ほかの必要のない人は逃げますという話は、別に官房長官に上げるような話ではないから、わざわざそんなことで私にかけてくることは考えられない。勘違いとかはあり得ない」
 「私自身も(福島第一原発の)吉田所長と(撤退問題の)話をしました。誰かの電話で、これは大事なことだから官房長官も直接話してくださいと。吉田所長も若干弱気でしたので、あなたの肩にかかっているんだから頑張ってくれみたいなことで。その時点での情報では、危ない状況だったと思います」
 「まさに、首相を夜中にたたき起こさないと判断できないような話であると。それから(官邸に)社長を呼んで撤退なんてあり得ないということを伝える」
 -撤退はあり得ないと伝えた時の社長の反応は。
 「わかりました、撤退なんかしませんと」
 -菅首相が(十五日未明に)東電に行った。
 「東電に乗り込むと聞いた時に、もっと早くやるべきだったのにというのが直観的な反応でした」
 -原子炉に海水を注入する検討は。
 「ある段階から、真水がなかったら海水しかないねと。東電が嫌だという話はなかった。再臨界のリスクがあるから、ホウ酸を一緒にという話はあった」
 -海水注入の中止問題があった。
 「海水注入について東電が言ってきて、大丈夫なんだろうなと念押ししたら過剰反応したわけです」
 -政府はメルトダウンを隠していたのでは。
 「私自身も炉心溶融している可能性もあると。溶けているかもしれないけれども、保安院が言うなら根拠を持ってこいと。メルトダウンかどうかは、結局データの分析なので、疑問は持ちながら、明確に言い切らないようにしていた」
-緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)の情報が公開されなかった。
 「(所管する)文科省は何かを隠したりしているのではと当時から不信感を持っていた。後になって言ってきたから、何で出さなかった、さっさと出せと。役所は抵抗しましたけど」
 -避難指示の問題。
 「チェルノブイリのように高放射線量を浴びて即死するような被害を心配していた。いつ戻れるかではなく、どこまで逃がしておけば済むのかということでいっぱいいっぱいだった」

 【福山哲郎 官房副長官】

 <三月十二日未明、官邸で菅首相らと対応を協議>
 「午前一時半の意思決定のときには、1号機のベントを行うと放射性物質が出るが、しょうがないという話になった。二時間後をめどにベントができるというので、午前三時十二分から記者会見を始めた。四時間もたってから終わっていないと聞いて、国民にうそをついたことになるではないか、爆発しないのかと東電を怒鳴った」
 -菅首相が現地に行くきっかけがあったのか。
 「当時は真っ暗で津波の被害が全然分からない。原発の状況も確認したい。相当、首相の中でストレスがたまっているのです。班目(まだらめ)(春樹・原子力安全委員長)さんや東電、保安院としゃべっていても分からないので『私が直接、吉田所長とやる』という感じ。行かなかったら、現場も見ないで指揮したのかとマスコミにたたかれる」
 -1号機爆発の話を。
 「当初は白煙が上がっているという報告と報道があった。首相が班目さんに聞いたら、原発は揮発性のものがたくさんあるので漏れているのではないか、みたいな話だった。その後、寺田学・首相補佐官が『今、映っています』とテレビをつけた。建屋が吹っ飛んでいます、爆発ではないかと、首相と私はほぼ同時にぐらいに叫んだ。班目さんは『あちゃー』という顔をされた。チェルノブイリ型の爆発が起こってしまったのかと思った」

 【菅直人 首相】

 <菅氏は聴取の冒頭、事故原因の見解を述べた>
 「福島原発事故は事故以前に、その大半の原因があったというのが、私の認識であります。歴史的に見れば、あの地域は五十年や百年に一度は大きな津波が来ているところであり、そういう考慮が当時全くなされていなかった点が象徴的にも言える。また原子力安全・保安院は、原子力を推進している経済産業省の中にあった。それがいろんな形で安全性を軽視することにつながったという事例は、たくさんあったように思えてなりません。簡単に言えば、全電源喪失を一切想定しない中で行われていたところに大きな理由があったと思っています」
 -福島第一原発の視察はどの時点で行きたいと考え始めたのか。
 「十二日午前一~二時に検討を指示しています。地震、津波の現場を上空からでもいいから見たいというのは当然ありました。(東電との)コミュニケーションがスムーズにいかない中で、現場の責任者と会って話をした方がいいと私なりに判断しました。私は原子力の専門家ではありませんけど(理系出身で)放射性物質を使った実験ぐらいはやったことがありますから、文系の政治家よりは理解できる私自身が行った方がいいとも考えました」
 -現地視察で「何でおれがここに来たと思っているんだ」と言ったのは、どういう意味だったのか。
 「免震棟に入ったら、そこにいた人に並んでくださいと言われた。何か手続きがあるかなと思って並んだら、一生懸命(放射線量を)計測するわけですよ。ですから、私はそんなので来たんではないんだと。(吉田)所長に会いに来たんだと」
 -吉田氏との面会にはどんな意味があったか。
 「この人はコミュニケーションがきちんとできる人だという感じがしました。吉田所長は、非常に合理的に分かりやすい話ができる相手だと。それが後々のいろんな展開の中で非常に役に立ったと思います」
 -武黒さん(武黒一郎・東電フェロー)の説明だと、海水注入の了承が官邸で得られていないので、注入をちょっと待ってくれと吉田所長に連絡している。
 「止めろと言ったことは一度もない。東電の伝達ミスか、誤解か、おもんぱかりというものが、私に対する批判になっているんですよ。そこが一番問題で、東電の体質ですよ。吉田所長は、一応止めるぞと言って、実は止めなかったという判断をしたわけですよ。立派だったと思いますよ」
 -十四日に3号機が爆発したが、1号機が既に爆発していて、危険性は事前に予測されていたのか。
 「1号炉が爆発したということは、2号、3号でも水素が漏れて爆発する可能性があることは、認識していました。4号は安心していました。原子炉の中に何もないわけですから。だから、4号が爆発したときは、本当に(原因が)分からなかったですよ。そういう意味では、心配していました」
 -東電の撤退の話を聞いたいきさつは。
 「十五日午前三時ごろ、私は執務室の奥の部屋でソファに寝ていたのですが、(海江田万里)経産相から『東電が撤退したいと言ってきている』と。(枝野幸男)官房長官の方からも『自分の方にも来ている』と。私自身は撤退はあり得ないと思っていました。清水(正孝)社長は『そんなことは言っていませんよ』という反論は一切ありませんでした。やはり(撤退と)思っていたんだなと」
 <東電への不信感を募らせた菅氏は十五日早朝、政府・東電の統合対策本部を設置。東電本店に乗り込んだ>
 -首相が東電本店に行くことになった。
 「行ってみると、二百人ぐらいの会議室で、私なりの気持ちを込めて皆さんに話をしたわけです。苦労しているのは分かると。しかし、ここは何としても踏ん張ってもらわないと、日本の国が成立しなくなる。命を懸けてください。逃げても逃げ切れない。金はいくらかかっても構わない。日本がつぶれるかもしれないときに、撤退はあり得ない。会長、社長も覚悟して決めてくれと。六十歳以上が現場に行けばよい。撤退したら東電はつぶれる。そんな話をしたんです。それ以来、撤退の話は聞かなくなりました」
 -事故に対処した首相として、後世に伝えたいことは。
 「やはり原発というのはちょっとやめておいた方がいいなと。やはり何といっても第一はリスクの大きさです。首都圏を含む三分の一に近いところは、ある期間住めなくなるというリスクを考えた時に、そのリスクを完全にカバーできる安全対策はあり得ないというのが私なりの結論です。もう一つ大きな問題は核廃棄物の問題です。今回の4号の問題は象徴的で、プールには使用済み燃料と同時に、使用中の定期点検中のホットな燃料も一緒に入っているわけです。使用済み燃料でも水が抜ければメルトダウン(炉心溶融)している可能性は十分ありますし、結局持って行く先がないと。原発の持っているリスクの大きさを考えるときには、責任を取りきれない。根源的なリスクを人間はコントロールし切れないだろうと思っています」
 -リスクは時間とともに忘れられていく。
 「リスクが薄れるのは、原子力村という、ある種の日本的体質が背景にあるのかなという気はします。スポーツから文化から、いろいろなところにスポンサーをしているわけです、電力業界は。強圧的に反対意見を抑えるのではなく、ソフトに心地よく面倒を見てくれるものですから、しっかりやってくれているのだろうと思いたくなるんです。最後は国民が決めることなのですね。大丈夫と思って、そのリスクを取るのか。これは危ないと思ってリスクをなくそうと思うのか」

【松本宜孝 内閣府防災業務担当主査】

 <地震発生直後から官邸地下の危機管理センターで、情報収集や事故対応に当たった>
 「原発事故発生後、保安院から派遣されたリエゾン(連絡員)は、法律やマニュアルに関する知見に乏しかった。保安院からは事故対応の手続きを依頼するメールが送られてきたが、フォントサイズの一貫性がなかったり、原災本部の正式名称が異なるなど不備が多かった。リエゾンに言っても理解されないだろうと思い、指摘はしなかった。地震、津波、原発事故など対応すべき事項が多く、依頼はフォローしなかったが、その後、保安院から問い合わせはなかった」

 【北沢俊美 防衛相】

 -三月十一日、関西にいた東電の清水社長が帰京の際、自衛隊ヘリに乗せてもらう調整をしたようだが、防衛相の意向で乗せない判断になったと聞いた。
 「正式な依頼はなかったんです。私は『自衛隊のあらゆる能力は災害対応を最優先に』と指示したんですが、名古屋方面まで来た社長を乗せたC130が離陸した事実は全く知らない。引き戻す結果になったわけです」
 -三月十五、十六日から米軍との協議が始まった経緯を教えてほしい。
 「官邸と米側の連携がうまくいかず、首相に話したら『そうなんです。調整してくれませんか』と依頼を受けた」
 -意見交換でルース駐日米大使はどんなことを。
 「『何でも要望を言ってほしい。われわれは同盟国ですよ』と強調していた」

 【中野寛成 国家公安委員長】

 -緊急被ばく線量限度を五〇〇ミリシーベルトに引き上げることを検討した三月十七日の首相執務室の協議は。
 「海江田経産相、細川律夫厚生労働相、北沢防衛相、細野補佐官らがいて、線量限度の引き上げに関する協議を行っており、私も参加した。菅首相から『前向きに検討してほしい』との話があった」
 「北沢氏は『この前に上げて、また上げるのか』と言っていた。私は慎重にすべきだと発言した。会議で結論は出ず、持ち帰って検討することになった。私は慎重に考えた方がいいとの印象を持ったため、北沢氏に電話でその旨を話し、北沢氏が首相に電話し、それが原因かは分からないが、本件は立ち消えになった。警察官を必要以上の危機に立ち入らせることは防ぎたいとの気持ちがあった」

 【高木義明 文部科学相】

 -文部科学省がSPEEDIというシステムを所管していた。原発事故対応でより積極的に使うべきではないかという議論はなかったのか。
 「まさにあってはならないことが起きました。放射能への不安というものもありました。最終的には国民の安全、安心をどう担保するかということでしょうから、そこは政府の最高レベルの判断だと思います」
 -SPEEDIの情報を、文科省で公表しようという話があってもよかったのではないか。
 「縦割りみたいな話になるのは分からんでもないけれども、これは国民の生命財産にかかわるもの。まさに政府の仕事ですよ。それを(文科省で)運用するのは、相当なことだと思います」

 【鈴木寛 文部科学副大臣】

 -三月十五日の文科省内の会議にSPEEDIの結果が出された際、政務三役から「とても公表できない」との意見は出たか。
 「覚えていません。ただ(圧力容器内の)全量(の放射性物質が放出された想定)で(結果が)世に出たら、(周辺への物資)供給が途絶えると、感想を抱くことは自然だと思います」
 -SPEEDIを文科省から原子力安全委員会に移管した問題。結果的に、安全委は移管を受けていないとの認識だった。
 「事実として、安全委は文科省からSPEEDIのオペレーターを受け入れ、異論もなかった。文科省は原発二十キロ以内の状況を知る立場になく、(予測の)仮定や公表をするのは不能だという理解です」

 【池田元久 経済産業副大臣】

 <地震発生後に福島第一原発のオフサイトセンターに入り、現地対策本部を立ち上げた>
 「十二日午前零時前に(いったん)オフサイトセンターに入った。特に(原発の破損を防ぐための)ベントが話題になっていて、松永(事務)次官には、ベントは事業者の判断でやるべきだと言った。あまりにも政治が前のめりになっている印象もあったし」
 -吉田昌郎所長のテレビ会議の発言を聞いていてどのような印象だったか。
 「東電というのは無責任の体系で、絶対(だれも)突出しない。しかし、吉田さんは現場を負っている責任感からノーを言える人だった。擁護するわけではないけれども、異質」

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