事故現場を初公開 吉田所長「線量高く 環境は今も厳しい」

 政府は十二日、東京電力福島第一原発の敷地内を、三月の事故発生後初めて報道陣に公開した。収束作業の指揮を執る吉田昌郎(まさお)所長が現地で初めて取材に応じ、「炉は最も重要な冷却が進んでおり、安定しているが、放射線量が高いなど環境は今も厳しい」との認識を示した。
 吉田所長は福島県民と国民に対し、「心よりおわび申し上げたい」と陳謝した上で、「今、働いている人はほとんどが福島の人。私も十四年ここに住んでおり、なんとかしたいと思っている」と述べた。
 事故発生当時を振り返り、「次がどうなるか想像もつかない中でできうる限りやった。『死ぬだろう』と思うことが数度あった」。2号機に冷却水を入れられなかった三月半ばには「コントロール不能になって終わりかなと感じた」という。
 当面の課題として放射線量の高さを挙げ、「敷地内はまだ危険な状態」との認識を示した上で、次第に作業員の被ばく線量が増えていく状況に、「人繰りが頭の痛いところだ」と語った。
 報道陣は、細野豪志原発事故担当相の現地視察に同行する名目で原発敷地内に入った。内閣記者会加盟の報道各社や地元新聞社、テレビ局、外国報道機関が参加した。
 敷地内の滞在時間は三時間余りで、防護服や全面マスクを着用。1~4号機を中心に、車内から見て回った。ただ取材場所や撮影は厳しく制限された。国は「核物質の安全や記者を被ばくから守ることを考えた」と制限の理由を説明している。
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3号機前で急上昇 1ミリシーベルト
 ようやく福島第一原発の事故現場をこの目で見ることができた。驚いたのは、放射線量の高さだった。厳しさを実感した。
 作業の拠点「Jヴィレッジ」(福島県楢葉町)を出発した時のバス車内の線量は〇・〇〇一五ミリシーベルト。同行の東京電力社員が伝えてくれた。しばらく走っていよいよ原発の正門に差しかかると、線量はJヴィレッジの十倍の毎時〇・〇一五ミリシーベルトに上昇した。
 「特に高いのが3号機。近くへ行くと、数値が跳ね上がります」
 社員が“予告”した通り、原子炉に比較的近い海沿いの道に差しかかると線量はさらに十倍以上に。
 そして、空高く煙を上げ水素爆発した3号機のタービン建屋横に差しかかると、最高値の一ミリシーベルトを記録。ここに一時間いれば、一般人の年間被ばく線量限度に達する値だ。バスもやや速度を上げて走り抜けた。今回の取材は団体旅行のように行動が厳しく制限された。免震重要棟以外ではバスを降りることも許されなかった。
 ガラス越しではあったが、4号機の原子炉建屋は南側最上部の鉄骨が崩れ、ぶら下がったコンクリート壁が今にも落ちそうな状態。鉄骨のすき間からは、黄色い原子炉格納容器のふたや使用済み核燃料プールの燃料を出し入れする緑色のクレーンが見えた。
 その奥の3号機は、がれきが積み重なった山のよう。当初は建屋の四角い形を残していたのに、一部の鉄骨を残して崩れたという。水素爆発のすさまじさを感じた。
 さらに奥には2号機の建屋、カバーで覆われた1号機が見え、三台の巨大クレーンが見えた。
 がれきの撤去がかなり進んだと聞いていたが、海側を進むと、道端には津波で流された車やプレハブ、がれきが転がっていた。
 1号機北東の海沿いには、事故発生直後に炉心へ海水を送ったポンプがそのまま置かれていた。中型トラックの荷台に三台並んだポンプはさびで赤茶け、炉心とつながる赤いホースは想像より細く頼りなかった。だが、このポンプとホースが最悪の事態を避けるための「命綱」だったことは間違いない。
 浄化した汚染水を循環させて炉心へと送っているホースも無造作に道端をはっていた。「車が乗って切れたりしないのか」と聞くと、東電社員は「その危険性はある。本当はU字溝で保護したいが…」と答えた。
 全面マスクには多くの記者が頭痛や汗で悩まされたが、重要免震棟で外すことが許された。棟内は換気の音がゴーと響き、Jヴィレッジ並みの放射線量に管理されている。防護服を着ていない作業員も多い。細野豪志原発事故担当相は「私が最初に来たのは五月。そのときには考えられなかったほど状況は落ち着いた」と語った。
 取材を終えて外部被ばく線量を確認すると〇・〇四八ミリシーベルト。二十日間ほど浴び続けると、年間の線量限度に達する計算だ。他の記者もほぼ同じ値だった。(加藤裕治)

吉田所長一問一答 「もう死ぬ」数度思った 安定したのは7、8月

 -今伝えたいことは。
 「福島県の皆さま、国民の皆さまもそうですが、発電所で事故を起こし、ご迷惑、ご不便をおかけしたことについて、心よりおわび申し上げたい。八カ月がすぎ、政府や民間企業の協力もあり、何とか安定した状態にもってこられた。福島県、日本全国、世界から支援の手紙をいただいたりして、本当に励みになった」
 -振り返って一番厳しかった状況は。
 「三月十一日から一週間が一番、次がどうなるか想像できない中で、できる限りのことをやった状況。極端なことを言うと、もう死ぬだろうと思ったことが数度あった」
 -死ぬかと思ったというのは。
 「1号機がどういう状況で爆発したのか(自らがいた)免震重要棟では分からない。現場からけがをした人間が帰ってくる状況で、最悪、核燃料が爆発したとなると大量の放射能が出て、コントロール不能になってくる。最後はやはり2号機の原子炉になかなか水が入らず、一寸先も見えない。最悪、メルトダウン(炉心溶融)もどんどん進んでくる、コントロール不能になるという状態を感じたので、その時に、これで終わりかなと感じた」
 -水素爆発の一報は。
 「まず『ボン』という音を聞いた。現場から帰った人間から1号機が爆発したみたいだとの情報が入った。3号機は音と画像、NHKのテレビ画像(で知った)。4号機は、音は聞いたが、2号機か4号機か分からない状況だった」
 -原子炉の現状は。
 「データで確認する限り安定していることはまあ間違いない。超安全というわけではなく、放射線量が高く、日々の作業にはまだ危険がある。使い分けが難しいが、周辺住民の方に安心していただける程度には安定している」
 -安定したのはいつ。
 「汚染水の漏えいを止めたり水処理をやったりで、六月いっぱいまで大変だった。本当に安定してきたのは七月、八月」
 -全電源喪失は想定していなかったと思うが。
 「個人的に言えば、そういう想定が、ある意味で甘かった部分があるわけだから、ほかの発電所もそこを踏まえ、施設を充実させる必要がある」
 -今後の取り組みは。
 「国全体として(工程表の)ステップ2を確実に終了させるのが一つの目標で、その次に中長期(の目標)というところだが、しっかりと作業をこなしていく」

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